散歩、旅行、お出掛け
昨日の続きです。
国立公文書館から靖國神社へ1
国立公文書館を出てから歩くと、さっきよりも警察官が増えているように見えました。
そしてここから北の丸公園を通って靖國神社へ行こうと思ったのですが、どうも警察官が封鎖しているように見えました。
それでいて、親子連れなんかは警察官の横を通って中に入っていました。
よく分からなかったので、歩道に立っていたスーツの警察官に聞いてみました。
別にスーツの人を選んだわけではなく、たまたま近くにいた警察官がスーツの人だったというだけです。
靖國神社に行きたいと言うと、西の方を指して、ここは通れないからあっちから行ってくれということでした。
しばらく歩くとまた北に抜ける道があったので、そこでもまた警察官に聞いてみました。
近くに行くと今度は向こうから話しかけてきて「科学技術館ですか?」と聞かれたので、靖國神社に行きたいと言うと、ここは通れないので外まで出て回って行って欲しいと愛想よく答えてくれました。
武道館で戦没者追悼式があるというのは何となく知っていましたが、そこに天皇陛下と総理大臣が来るので、危険な人を近づけないようにということで厳重な警備になっていたのではないかと思います。
ということで、また千鳥ヶ淵まで戻ることにしました。
戻る途中、国立近代美術館工芸館というところで何かの像があったので、何なのか見てみようと思って細い階段を降りてくる人を待っていたら、また警察官がよってきて「あちらの方に行かれるんですか?」と聞かれたので、そこの像を見たいだけだというと、あーそうですかという感じでした。
そして、あっちで靖國神社に行きたいと言うとぐるっと回って行くように言われたとか何とか、ちょっとお話ししました。
ちなみにその像というのはこれです。
後で調べてみると北白川宮能久親王という人の像で、皇族で陸軍軍人だったようです。
ちなみにこの工芸館の建物も、元は近衛師団司令部の庁舎で、今では重要文化財になっているそうです。
国立公文書館から靖國神社へ2
千鳥ヶ淵まで戻ってきました。
さっきよりも規制が厳しくなっていて、バリケードまでされています。
このバリケードは、一応普通の自動車も入っているように見えました。
こいつらやべぇという見た目の自動車は止められるということでしょうか。
あとは、各都道府県から戦没者追悼式に出席するために来たであろうバスは入れるようでした。
内堀通りを北に行こうとしたら、ここも通れないようでした。
北東方向を向いて撮った写真ですが、ここからもう一本西の通りに行くように指示されました。
そうして裏通りに入ると、右翼っぽい車をたくさん見かけました。
車のそばにはその団体所属らしいヤクザっぽい雰囲気の人たちがいたので、車に近づいて写真を撮るのはやめておきました。
北方領土を返せとか天皇制が必要だという考えはぼくもこの人達と同じだと思うので、どういう考えなのか話を聞いてみたい気もしました。
ですが、トラブルは暴力で解決しそうな勝手な?イメージがあったり、逆に勧誘されたりしたらたまらないとおもったので、目を合わせないように素通りしておきました。
靖國神社で
いろいろ回り道をしましたが、ようやく到着しました。
時刻は11時半頃でした。
せっかくなので、第一鳥居から入るために外を歩いて行きました。
田安門前の交差点の歩道橋から東を見たところです。
ここも警察官が交通規制をしています。
左の歩道で手前側に歩いている人たちが、これから靖國神社に行こうとしている人です。
ちなみに奥にスカイツリーが見えています。
神社の入り口ではこんなアンケートをやっていました。
ぼくは参加していませんが、何となくこんな結果でした。
「翁長知事は・・・」については、質問文がズルい気もします。
銅像の向こう側にテントが設置されていて、イベントをやっていました。
ぼくが通りかかった時は、ちょうど呉善花さんがお話されていました。
そして、第二鳥居手前から人の行列ができています。
最初、みんな立って何をしているのかと思いました。
奥に白い幕が見えるところが拝殿で、そこで参拝するために並んでいる人たちでした。
この炎天下で並んでいたら具合が悪くなりそうだったので、列の横を抜けて先に進みました。
あとは、朱印帳を買ってみました。
出来上がるのに20分ぐらいかかるということだったので、その間遊就館に行きました。
中まで入ると見終わるのに1日あっても足りないと思うので、売店だけ見ることにしました。
が、ここも人が多すぎてろくに商品を見ることができませんでした。
その奥で、「大東亜戦争七十年展 最終章」という特別展をやっていました。
ここだけだと入場料300円だったので、この中に入ってみることにしました。
入った時間が11時50分過ぎでした。
館内では、武道館でやっている戦没者追悼式の音声を流すということだったので、座れるところに座ってそれを聞きました。
まず国歌斉唱がありました。
周りで歌っている人がいたので、ぼくも歌いました。
君が代を歌ったのは、恐らく大学の卒業式以来ではないかと思います。
その後、総理大臣の挨拶がありました。
正午に黙祷する事になっていて、誰からともなく起立し始めてぼくも立ち上がりました。
正午直前に、館内のアナウンスでもご起立願いますという声がありました。
そこから1分間黙祷しました。
すると、さっきまでざわざわしていた館内がすごく静かになりました。
展示を見ていた人も、お土産屋さんにいた人も、みんな黙祷していたんだと思います。
みなさんどんな思いで黙祷を捧げたのでしょうか。
ぼくは、感謝と安らかに眠ってくださいという気持ちでした。
黙祷が終わってから、天皇陛下のお言葉を聞き、戦没者追悼式の中継が終わりました。
その後展示を見ました。
展示内容は、戦争で兵隊として命を失った人たちの遺品が主なものでした。
この人達が命をかけて戦ってくれたおかげで今の自分があると思うと、涙なくして見ることはできません。
20分ほどかけて展示を見た後、遊就館を出て朱印帳を受け取りました。
記念すべき1ページ目です。
帰りに「戦後70年 若人の集い」というイベントの受付をやっていました。
ぼくがYouTubeで動画をよく見ているKAZUYAさんもお話するということだったので、ちょっと興味ありました。
でも午前中のイベントの横を通った時にも思ったのですが、内輪で盛り上がっているだけのように見えました。
別にこのイベントが悪いことだとは思わないし、自分にできない啓蒙活動をやっているのでぼくがどうこう言う資格はないと思います。
まあいろいろ考えて、今回は出席を見送りました。
帰り道
あとは、靖國神社を出て九段下駅から電車に乗って帰りました。
爆風スランプの「大きな玉ねぎの下で〜はるかなる思い」でも、「九段下のー 駅を降りてー さーかーみーちをー」と歌っている通り、日本武道館の最寄り駅です。
この歌はいつ頃だったか忘れましたが、CDが普及し始めた頃の歌で、ぼくもこのCDを買いました。
Wikipediaによると、1989年に発売されたようです。
あとは、あの人通りの中で署名活動やら何やらやっている人がたくさんいました。
その中に、安倍談話は英霊を冒涜しているというのがあって、ぼくと同じ意見だと思ってよく見てみると、某新興宗教系の政党機関紙の号外だったので、うえぇ〜と思ってしまいました。
普通に靖國神社を参拝したいだけならば、イベントのない日をおすすめします。
前に平日に行った時はガラガラで、遊就館もゆっくり見ることができました。
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8月15日まで国立公文書館で「終戦の詔書」の原本が展示されるということだったので、見てきました。
ルートは、半蔵門駅を降りてから国立公文書館に行き、その後北の丸公園を通って靖國神社に行くという予定で考えていました。
半蔵門駅から国立公文書館まで
まず駅を降りて裏通りを歩いていたら、警察官を何人か見かけました。
まあこういう日なので、皇居や靖國神社周辺で何かおかしな事をする人が出ないように警戒していたのでしょう。
内堀通りに出てから、千鳥ヶ淵方向です。
警察官だけではなく、輸送車?も止まっています。
物々しい雰囲気になってきました。
皇居ランナーはいつも通りに走っていました。
ゼッケンを付けた人や給水の人がいたので何か大会のようなものをやっていたようです。
後で調べてみたら、第37回皇居Cityマラソンというのだったようです。
首都高の代官町インター出口です。
ここの警察官は何をしているのかと見ていたら、一般車がここから降りないように見張っていたようです。
一般車が降りようとすると、ここは通れないと警察官が出て行って、最終的には輸送車をバリケードにしていました。
この場所では見ませんでしたが、出口の方に歩いて行くと黒い車がインターから降りてきたので、やっぱり限られた車だけが通れたようです。
北の丸公園への入り口です。
制服の警察官だけではなく、スーツの警察官もいました。
暑いのに上着まで着て大変そうでした。
国立公文書館内の写真
「昭和20年 -戦後70年の原点-」という展示会をやっていて、その中で終戦の詔書の原本が公開されていました。
展示会はこんな感じでした。
思ったほど混んではいませんでした。
フラッシュを使わなければ写真撮影してもいいということだったので、この展示会で展示されてたものを全て撮ってきました。
以下、撮ったものを全部並べてみます。
終戦の詔書について
この展示会スペースの外に、終戦の詔書について切迫した様子が見て分かることの説明がありました。
その他
こんなものも展示されていました。
これは原本らしいです。
これをテレビで見た時は、ぼくの13歳の誕生日から3日後でした。
平成生まれが小学生にとか社会に出たとかニュースなどで言っていて、若いという印象でしたが、今となっては平成生まれももう27歳ですね。
写真でこれを掲げている、当時官房長官だった小渕さんももう亡くなってしまったので、時代の流れを感じます。
写真が多くなったので、続きは明日にします。
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昨日、銀行でお金をおろす必要があったので、そのついでに行ってきました。
平日の暑い中、歩いて行ってきました。
まず入り口です。
確か毎週月曜日は開いていないらしいので注意してください。
門?はこんな感じです。
見えにくいけど、中央に「慰霊堂」と書かれた札があります。
そして慰霊堂がこんな感じです。
ここには5万8千人あまりの戦没者や戦災死者が祀られています。
人は誰もいませんでした。
お賽銭箱があったので、お金を入れて手を合わせてきました。
これらの犠牲になった人たちのお陰で今の生活があると思うと、感謝せずにはいられません。
残念ながら、そういう事を学校では習った記憶がありません。
戦争は悪い、戦争を起こした日本も悪いと教えられたような記憶はあります。
ここからの眺めです。
右に見えるのは上大岡のオフィスタワーです。
ちょっと前まではこれが上大岡で一番高い建物でしたが、今は同じぐらいの高さのものやこれよりも高いマンションが建っています。
ここからさらに奥に行くと、公園のようなものがありました。
外苑から出たところです。
車が通れないぐらいの細い道でした。
車道に出ると、正門らしいものがありました。
次はかながわ平和祈念館です。
慰霊堂から歩いてすぐです。
入場無料です。
中は小さな展示室が1つと、あとは一般の人が借りることができる会議室や床の間がありました。
戦時債権が展示されていたので、写真を撮ってきました。
こうやって国民から軍資金を調達していたんですね。
あと横浜が焼け野原になった写真も見ました。
民間人を攻撃することは国際法違反だったはずですが、アメリカはそれをやったというわけです。
日本は下衆なことはしなかった(全くなかったと言えるかどうかは分かりませんが、少なくとも組織的なものはなかったと思います)結果戦争に負けて、アメリカのプロパガンダによって今現在でも日本が悪者になっています。
それで今のアメリカを憎むという気持ちはありませんが、そういう事をみんなが知っておいて欲しいとは思います。
1つ気になったのが、展示品の説明に「太平洋戦争」「日中戦争」という言葉が使われていたことです。
日本は東アジアや東南アジア諸国を欧米の植民地支配から解放しようと戦った戦争なのに、太平洋戦争という呼び方だと太平洋を挟んだ日本とアメリカの地域限定の戦争というイメージです。
欧米の植民地支配から独立した大東亜共栄圏を連想させるということで、GHQが大東亜戦争という呼び方を禁止したんだったと思います。
日本は私利私欲のために戦争を起こしたのではなく、植民地支配からの独立という大義名分があるので、日本人としてはやっぱり「大東亜戦争」と呼ぶべきでしょう。
日中戦争についても、そもそも中華人民共和国という国は当時存在していません。
そして日本も中華民国も宣戦布告していないので、これは戦争ではなく事変ということで両者話が付いていたと思います。
なので、「支那事変」とか「日華事変」と言うのが正しいでしょう。
あとは上大岡をぶらぶらしてきました。
橋があってその先に商店街のアーケードというのが、大阪っぽい気がします。
規模が全然違いますが(笑)。
大岡川に住んでいる大きな鯉です。
この川、調べてみたらみなとみらいの日本丸のすぐ横に続いているので、カヌーなんかでこの川を下れば技能試験の会場に行けます。
試験当日に電車が止まった時などは、この交通手段も検討しようと思い・・・ません(笑)。
あと、ヨドバシカメラから富士山が少しだけ見えました。
真ん中の雲の左側です。
帰ってからお風呂に入った時に気づきましたが、首の左側だけ日焼けしていました。
謎です。
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くれもな
1976年1月4日生まれ(39歳)
神奈川県横浜市在住
独身、一人暮らし
うつ病のため、2012年8月に12年間勤めたシステム会社を退職しました。
現在は、会社に頼らず生きていく方法を模索中です。
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